2009年8月24日月曜日

五十にして道程を考える



最近五十才を迎え思うのは、当然ながら自分の道程。

僕の前に道はない 
僕の後ろに道は出来る…

高村光太郎の代表的作品「道程」なのだが、
久しぶりに読んでみるとなるほど思い深いものがある。

ああ、自然よ 父よ
僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで 守る事をせよ
常に 父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

教科書にも載っていたこの作品、実は原型があって
かなりの長文。

ある時…道の最端に立っている自分に気づく。
そして振り返ると歩いてきた道が見える。
曲がりくねった様々な道、自堕落・絶望・苦悩という
道の表現が続く。
先端に立ち、そして「生命の道」への疑心暗鬼と戦う。
が、その惨憺たる自分の道が生命に導く道だったと気
づかされる瞬間、それが自然の広大ないつくしみに涙
したことから始まる。
そして、それに気がつくことで、一人立ちという、こ
れからの道を歩く指針を確認する。

偉大なる自然・父の子供たちは、これからの道を全身の
力で拓いて行かなければならない。当然更なる試練や、
紆余曲折はあるのだが、父のいつくしみに対して報いた
いとする気を燃やし、前へ歩く力となっていく。



久しぶりに全文ゆっくりと読み返してみると
昔読んだころの印象と今とでは大きく価値観が変わって
きている自分に気づく。

五十を境に考えたことは…自分自身道程へのこだわりが
多かったのではないか?という事実。道程にこだわること
で、道程を嘆き、道程に守られ、そして道程にしがみつ
いている自分があったのではないか?と感じる。

偉大なる自然・父というものは、多くの人間たちの心の
中それぞれに違った価値観で存在するに違いないが、問
題はそれに気づくことができるのか否かなのだろう。


歩け、歩け
どんなものが出て来ても乗り越して歩け
この光輝く風景の中に踏み込んでゆけ



先端に立ち 立ち止まって
昔を悔やんだり 思い出ばかりに浸り続けると
未来の道程は決して生まれない…。
僕の前に道がないからこそ、
歩かねばならない。

そして、それらに早く気がついた時
きっと優れた道程が刻まれていくに違いない。










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